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第53話 最後の宿泊客

Author: 天咲琴乃
last update publish date: 2026-09-16 13:01:27

 カセットから聞こえた理人の声は、いのりが知っている二十三歳の頃よりずっと低く、穏やかだった。

『二〇〇一年七月二十三日。今日、ペンション調を閉じる』

 いのりは思わず顔を上げた。

「今日……?」

 旧ペンションの看板に残されていた文字を思い出す。

 ――2001年閉館。

 理由までは、どこにも書かれていなかった。

『経営不振じゃないぞ』

「そこ気にするんだ」

『一応言っておかないと、お前なら勝手に心配しそうだからな』

 五十四年も前へ別れた相手に性格を読まれている。

 悔しい。

 でも、少し嬉しい。

 テープの向こうで、理人が小さく笑った。

『客は来てた。むしろ、まだ続けられた』

 一拍。

『でも、続けられることと、続けるべきことは違う』

 ノイズが走る。

 いのりは黙って耳を傾けた。

 その年の春。

 理人は巌、すみえと三人で話し合ったという。

 時間から外れた宿泊客は、もう何年も現れていなかった。午前二時十三分になっても時計は止まらず、湖に不自然な光が現れることもない。

 花の鈴も。

 月の鈴も。

 もう、誰かを導こうとはしなかった。

『最初は寂しかったよ』

 理人の声が続く。
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  • ペンション調 shirabeー愛する人を還すため私は過去に残るー   第53話 最後の宿泊客

     カセットから聞こえた理人の声は、いのりが知っている二十三歳の頃よりずっと低く、穏やかだった。『二〇〇一年七月二十三日。今日、ペンション調を閉じる』 いのりは思わず顔を上げた。「今日……?」 旧ペンションの看板に残されていた文字を思い出す。 ――2001年閉館。 理由までは、どこにも書かれていなかった。『経営不振じゃないぞ』「そこ気にするんだ」『一応言っておかないと、お前なら勝手に心配しそうだからな』 五十四年も前へ別れた相手に性格を読まれている。 悔しい。 でも、少し嬉しい。 テープの向こうで、理人が小さく笑った。『客は来てた。むしろ、まだ続けられた』 一拍。『でも、続けられることと、続けるべきことは違う』 ノイズが走る。 いのりは黙って耳を傾けた。 その年の春。 理人は巌、すみえと三人で話し合ったという。 時間から外れた宿泊客は、もう何年も現れていなかった。午前二時十三分になっても時計は止まらず、湖に不自然な光が現れることもない。 花の鈴も。 月の鈴も。 もう、誰かを導こうとはしなかった。『最初は寂しかったよ』 理人の声が続く。『ここが普通のペンションになったことが』 普通になる。 それは本来、喜ぶべきことだった。 なのに三人にとっては、長い間背負ってきた役目がなくなることでもあった。『巌が言ったんだ』 声の向こうで、懐かしい祖父の言葉が蘇る。『終わったものを、終わってないことにするな』 いのりは目を閉じた。「おじいちゃん……」『葉月を待つ必要もない。未来から来る誰かを待つ必要もない。俺たちがここを守らなきゃならない理由も、もうない』 そして巌は笑ったという。『だったら、終わりでいいだろ』 理人はすぐには答えられなかった。 ここは、彼が初めて自分の人生を選んだ場所だった。 巌と喧嘩した。 すみえと働いた。 客を迎えた。 笑った。 泣いた。 そして、いのりを想いながらも、いのりのためだけではない人生を生きた。 ペンション調は。 理人にとって、家だった。『だから俺は、自分で閉めることにした』 いのりの胸が締めつけられる。『大切だから残すんじゃない』『大切だからこそ、終わらせる』 それは。 人との別れにも似ていた。 終わらせることは、なかったことにすることで

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     一九九八年七月二十三日。 写真に写っている理人は、どう見ても二十三歳ではなかった。 目元には薄く皺があり、黒かった髪には白いものが混じっている。それでも、湖を背に立つ姿には見覚えがあった。「……理人さんだ」 四十九歳。 一九七二年から二十六年を生きたのなら、それが正しい。 けれど、いのりは覚えている。 三〇二号室で見た一九九八年の記録には、若い理人がいた。 母を湖から救ったのも、二十三歳ほどの姿だった。「どういうこと……?」 写真を裏返す。 そこには、理人ではなく巌の文字が残っていた。 ――一九九八年七月二十三日。 ――ようやく、時間が一つになった。 いのりは息を止めた。 その下には、さらに説明が続いている。 ――以前、この日の記録には二人の理人が存在した。 ――一人は、一九七二年から生きた理人。 ――もう一人は、時間から弾き出され、二十三歳の姿のままこの日に現れた理人。 ――どちらも偽物ではない。 ――同じ人間が、違う道を通った結果だった。「……やっぱり」 あの頃、何度も見た二人の理人。 コピーでも、偽物でもなかった。 時間が壊れたことで、同じ人間の異なる地点が重なっていただけ。 そして。 いのりたちが最後に選んだことで、その分岐は終わった。 ――今ここにいるのは、 ――自分で一九七二年を選び、 ――そこから二十六年間を生きた西園寺理人だけだ。 いのりは写真の中の理人を見る。「ちゃんと……四十九歳になったんだね」 嬉しかった。 彼が年を取ったことが、こんなにも嬉しいなんて思わなかった。 生きた証だから。 失われなかった時間だから。 写真には、母も写っていた。 成長した母が湖畔に立ち、その少し前に理人がいる。 以前見た光景と同じ。 母へ届いた手紙。『七月二十三日。午前二時十三分。湖へ来てください。あなたの娘を助けたいなら』 まだ存在しない娘。 いのりを救うため、母は湖へ向かった。 そして足元が崩れた。 けれど今回は。 四十九歳の理人が、その腕を掴んでいる。 ――あの子は俺を見るなり、 ――「やっぱり、おじさんだった」と言った。「ふふっ」 一九九〇年。 幼かった母は、理人を頑なに「おじさん」と呼んでいた。 八年後。 母は彼を覚えていたのだ。 ――俺も覚えていた

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  • ペンション調 shirabeー愛する人を還すため私は過去に残るー   第48話 最初の宿泊客

    一九八二年七月二十三日。 その日付を見た瞬間、いのりは以前見た写真を思い出した。 十年後の理人。三十三歳になった彼が、ペンション調の前に立っていた写真。「この頃には、もう完成してたんだ」 封筒を開く。 中には一枚の便箋と、色褪せた写真が入っていた。 湖を背にした木造のペンション。玄関には『調』と書かれた看板があり、その前に巌、すみえ、理人が並んでいる。 若かった三人の顔には、十年分の時間が刻まれていた。 理人も。 ちゃんと、年を取っている。 そのことが、なぜだか嬉しかった。 ――いのりへ。 ――ペンション調ができて、何年か経った。 ――今日は最初の宿泊客の話をする。 ――正確には、 ――「最初に帰る場所をなくした客」の話だ。「帰る場所をなくした……?」 いのりは続きを読む。 ――一九八二年七月二十三日、夜十一時過ぎ。 ――予約のない女の子が来た。 ――年は十八くらい。 ――びしょ濡れで、裸足だった。 少女は、自分の名前を覚えていなかった。 どこから来たのかも分からない。ただ「湖の向こうから鐘の音が聞こえた」と繰り返し、巌が警察へ連絡しようとすると激しく怯えたという。 そして午前二時十二分。 少女は理人に尋ねた。『ここ、何年ですか』 理人が一九八二年だと答えると、少女は泣き出した。 ――あの瞬間。 ――俺たちは三人とも分かった。 ――まただ、って。 いのりの背筋に冷たいものが走った。 時間から外れた人間。 葉月。 理人。 いのり。 彼らだけではなかった。 ――少女が覚えていたのは、一つだけ。 ――一九六七年。「十五年前……」 少女は十五年後へ飛ばされていた。 家族の名前を調べることはできた。しかし、彼女の両親はすでにその土地を離れ、消息が分からなかった。 少女は泣きながら言った。『帰りたい』 理人は答えられなかったという。 ――昔の俺なら、 ――どうにかして一九六七年へ戻そうとしたと思う。 ――でも、やめた。 いのりは少し驚いた。 理人なら、助けようとする。 自分を犠牲にしてでも。 ――巌が少女に聞いた。 ――「お前は、どうしたい?」 ――過去へ帰りたいか。 ――それとも、ここで家族を探したいか。 ――決めるのは俺たちじゃない、と。「おじいちゃんらしい」

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